受話器からは、息づかいだけが、聞こえてくる。彼の、いつもよりも荒い、息。
この沈黙を、どう解釈したらいいのだろう。私は携帯電話を、握り直す。
手が、汗ばんでいた。
「なんで、黙ってるの」
思わず、問い詰めるような声が、出てしまう。どちらかといえば、私がリードしている恋。私が行きたいところ、私が食べたいものに、彼は、付き合ってくれている。だけど、だからって、こういう時に、黙っているなんて、ずるい。
日課になっている、寝る前の携帯メール。今日は、おやすみと書く代わりに、
『“あれ”が来ないの〜』
と、軽口風に綴ってみた。
生理が遅れているのは事実で、明日でもう一週間になる。
そろそろ、妊娠検査薬を買ってこなくてはならないかもしれない。どんな顔をして買えばいいんだろう。近所の薬局で買うと、店員さんに、いろいろ勘ぐられるかもしれないからやめておこう。いつもサプリメントやコスメを買い込んでいるから、顔を覚えられているかも、しれないし。
なんだかこんな風にこそこそしているのって、おかしい。私は悪いことなんかしていないのに。相手の男だって、独身だ。別 に結婚の約束はしていないけれど、全然望まない妊娠というわけでもないはずだ。
あの日……。
彼の部屋でなんとなくその気になって、お互いに服を脱いで……。私も彼の温かな背中に手を回して、ベッドの上でふたりでもつれ合って……。
さあ、ひとつになろう、というところで、避妊具がないことに、気づいた。
「外で出すから」
彼がそう言ったし、私も、頷いた。
今までだって、そういうハプニングはあったけれど、妊娠はしなかったし。
でも、あの日から、三週間ほどが経っても、私の生理は、来ない。
もう少し、自分の身体に慎重になるべきだったのかもしれない。あの日は、ちょうど排卵の頃だったのだろうと思う。確かに彼は私のお腹の上で果 てたけれど、一部の精子が、中に零れてしまったのかもしれない。
生理、来ないな、が三日目となり四日目となり、不意に、妊娠がリアルなものに感じられてきた。
どうしよう、と思った。
産む? のだろうか?
私の仕事は? 続けるんだろうか。
親には? 何て説明すれば、いいのだろう? そしてハヤトとは?
……結婚、するのだろうか?
全然、現実感がなかった。
ひとりで考えていても、結論なんか、出てはこない。だけど、だからと言って、ハヤトにこんな重い話題を投げかけるのも、つらかった。本当は、妊娠検査薬を買って、ひとりでチェックをし、もし陽性だった時にだけ、彼に打ち明けるつもりでいた。
だのに、どんどん、ひとりで抱えているのが辛くなってきて、メールを打ってしまった。送信ボタンを押した時、少しだけ、後悔した。やっぱり言わなければよかったかな、と。
生理の前、私は軽く、むくむ。
特に膝から下がひどい。立ち仕事でもないのに足が腫れて、靴がきつくなってしまう時もあるほどだ。乾いたスポンジが水を吸い込むかのように、この時期は身体が重くなる。脳にも水が浸透していくのだろう、頭の中がぶよぶよしている。耳のほうまでぼわんと膨らむほどに、水が、満ちていく。水の中を漂っているかのようで、身体中が水に包まれているかのようで、この時期の私は、ぼうっとしてしまいがちだ。そして、ももや腰や脳味噌がもう限界というところまでたぷたぷに溢れてきたところで、やっとのことで生理が来る。寝込むほどではないにしても、ぼうっとしてしまって、決してベストな体調では、ない。
いつもだったらこの辛さからは、もっと早く解放されているはずなのに、生理は来ない。私の身体は、水かさを増し続けている。その苛立ちと、限界に近いけだるさとを、ハヤトに少し託してしまったのかもしれない。
果たして、彼からはすぐ返事が来た。
直接携帯にかかってきて、
「今のメール、ほんとなの?」
と、焦った声で尋ねてくる。
「ほんとよ。もう一週間も、遅れてる」
冷静な声で、答えた。責任は彼にも半分あるとはいえ、なんだか私が彼を責めているような感じがして、居心地が悪い。
「……」
彼は、黙っていた。随分長いこと、息づかいだけが、私の耳に届いていた。普通 にお喋りをしている時に、こんなにはぁはぁされたら、
「やだ、恥ずかしい」
などと、笑い出してしまうかもしれない。腫れぼったくなっている耳たぶに、彼の吹息が届いた気がして、首を縮めてしまう。
「黙ってないで、何か、言って」
じれったくなって、そう持ちかけた。
「うん……」
ハヤトは、こういう事態を何も予想していなかったようである。どう動いたらいいのか、何を言えばいいのか、全然わからないらしい。頭が真っ白になってしまっているのかもしれなかった。
(前、子ども欲しい、って、言ってたくせに)
少し、呆れてしまう。
もしかしたら喜んでくれるんじゃないか、なんて、期待していたのに。現実は、これだ。ただおろおろするだけだったなんて……。
「まだ妊娠、と決まったわけじゃ、ないんだよね?」
「うん……」
「検査薬とかは?」
「まだ、買ってない」
「……明日、一緒に確かめようか」
「いい、ひとりで、やるから」
私のオシッコがかかったばかりの検査キットを、二人でホテルの部屋で眺めなくてはならないのも、気が滅入ることだった。陽性だった時の彼の表情を見るのも、恐かった。
「できてたら、そのとき、また考えよう」
ハヤトは少し、落ち着きを取り戻していた。 その後、私はひとりで、隣の駅のドラッグストアまで、自転車を飛ばした。私のことなど知っている人がいないであろう街で、一番安い一回分の検査キットを買う。千五十円だった。小さな紙袋に入れられたそれをバッグに仕舞う時、少し、惨めだった。そして、唇を噛みしめて、家に向けてペダルを踏み直す。
むくんでいる耳たぶに、少し冷たい風が当たった。
ハヤトは、喜んでなど、いなかった。
ひどく、困っていた。
それが、すごく哀しかった。
「できてたら、その時に、また考えよう」
という言葉の意味を、私は考えた。彼は、
「できてたら、産もう」
「できてたら、結婚しよう」
どちらとも言わなかった。
お互い、こんなことが現実に起きるとは持ってもいなかったのだから、しかたないのだけれど……。
それに彼は、私の体調を心配してもくれなかった。聞かれたら、普段より少しむくんでいるとか、つわりみたいな吐き気はないとか、いろいろ、答えたのに……。
私は彼に、多くを望みすぎているのだろうか。
赤信号で、止まる。
ハヤトを少し、恨めしく思った。
彼は、いまごろ悶々としているかもしれない。でも、きっと眠くなったら布団に潜り込んで、いつものように眠ることだろう。その時には、新しく芽生えたかもしれない命のことなど、頭から離れてしまうことだろう。でも、私は違う。二十四時間、片時も離れず、子宮が在る。常に、いるかもしれない子どもを、身体が意識している。慣れないプレッシャーで、早くも身体が疲れている。肩が緊張で、がちがちに凝っている。これから先は長いかもしれないのに、どうしたらいいのだろう……。
信号が青になった。
難しい顔をしたままで、ペダルをぐいと踏み込む。
サドルが少し強めに股間に当たった。その時、生温かいものが、パンティに触れた。懐かしくも生々しい触感に、思わずびくりとした。
家に帰り、靴を脱ぐのももどかしく、パンティを玄関先でずり下げる。
赤い印が、そこに在った。
なんだ、来たのね。
不意の来客を慌てて迎えながら、トイレに入って、ナプキンを当てる。
安堵感が広がっていった。やはり、自由がいい、と。小さな子どもを抱えて暮らすなんて、自分にはできなそうで、怖じ気づいていたからだ。
でもそれと同時に、淋しさが、こみ上げてきた。母親になれなかった……。なる気持ちなどあまりなかったくせに、天使が腕の中をすり抜けて行ってしまったかのような、喪失感があった。
ハヤトに生理の到来を告げたのは、それから丸一日経ってから、だった。
耳 |
乳首
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クリトリス
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指
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唇
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背中
|
腋
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