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ヒロくんは、私のすべてだった。
あの時、私の世界は彼一色に染まっていて、私には、彼しか見えなかった。
ヒロくんといると、毎日、何かが起きた。
うれしいことも、かなしいことも、くやしいことも、さみしいことも。とにかく、感情を揺らすたくさんの出来事が連なった。私はそのたびに喜んだり悲しんだり、怒ったり泣いたりしていた。ヒロくんのことが大好きなのに、私には気が休まる暇がなくて、しみじみ大好き、と呟くことも、できなかった。
ヒロくんは、加季さん、ゆっくりしていきなよ、と、いつも言ってくれた。急いだって、ゆっくりやったって、結果は同じなんだよ。私よりみっつ年下のくせに、彼は時々、妙にえらそうなことを口走った。
二十二歳のあの頃。学生寮の二〇九号室だけが、私の世界だった。
そして大学四年生だった私は、この世界からもうすぐ出ていかなくてはならないことも、知っていた。だけどヒロくんと一緒にもう少し、夢を見ていたかった。
ヒロくんが作り上げた世界の、私は住人だった。彼は神で、私はしもべ、ううん、彼の信者みたいなものだった。彼はたくさんのドラマを仕掛けてきた。私達は、うわあ、と毎日のように、目をぱちぱちさせて、いろいろなことに驚いていた気がする。
小田急線は、多摩川を越えようとしていた。静かな水面。薄曇りで世界が色を少し失いかけている肌寒い午後だった。
吊革に掴まっていた私は、見るともなしに、眼下の河原を見下ろした。
ふたつの人影が見えた。キスを、していた。
ジーンズをはいたカップルが、お互いの顔と顔をぴったりくっつけるようにして、キスをしていた。
電車がごぅう、と音を立てて、川を横切っていく。その振動にもびくともせずに、二人は、お互いを味わっていた。
不意に、瞳が、熱くなった。涙ぐんでいた。
陸地に戻ると、電車の車輪の音はまた静かになって、先を進む。
途端、チャカチャカ、耳障りな音が、左隣から聞こえてきた。イヤホンの音量が大きすぎるのだ。大きなギターケースを抱えた、不揃いのぼさっとした髪の男の子を少し、睨んだ。けれど、次の瞬間……。彼がイヤホンを外して、ブルブル震えて着信を告げている携帯電話を耳に当てた途端、迷惑だなと思った音は、ちっとも迷惑ではなくなっていた。
イヤホンから漏れ聞こえてきた音楽……。
それは、ピチカートファイブの『スゥイートソウルレビュー』だった。
この曲を、ヒロくんは、よく聴いていた。
一九九三年だった。バンドブームが去って、軽いさっぱりした歌、ZARDとかB'zとかが流行り始めたた時代。毎週カラオケに繰り出しても、どうしてなのだろう、私達は全然飽きなかった。毎週のように『バッドコミュニケーション』や『負けないで』を歌っても、聞き飽きるなんてことは、なかった。
あの頃。わかりやすくてノリがよくて、歌いやすい曲ばかりがランキングに名を連ねていた頃。手っ取り早く楽しくやりたいというあの時代の空気を反映した曲が溢れるなかで、一瞬だけ、おしゃれな曲調が煌めいた時期があった。フリッパーズギター、オリジナルラブ、東京スカパラダイスオーケストラ、モダンチョキチョキズ、そして、ピチカートファイブ。
よりお洒落な作品を目指したグループがいた。ヒロくんは、彼らがお気に入りだった。
世の中に
ハッピーもラッキーも
ぜんぜんなくても
あなたとなら うれしくて
ほほ頬ずりしたくなるよね
優しい、囁きかけるかのような、宥めるかのような、お母さんのような深い愛情こもった、おしゃれなヴォーカル、野宮真貴の歌声。
あの日、ヒロくんが、私にプレゼントしてくれた、曲……。
不意に、十年前の感情が噴き出してきた。
もう、遠い昔に、心からいなくなっていたはずの、やりきれないほどのもどかしい、愛。そして、憎しみ。
これは、何の偶然なのだろう。どうして隣の人は、この、十年前にほんの少し流行した、もう解散してしまったグループの歌を、聴いているのだろう?
思い出に逢いに行こうと決心して、私は、何年かぶりに小田急線に乗っている。そうしたら、ピチカートファイブが流れてきた。
河原でカップルが長いキスを、していた。
「正しかったら世界中が応援してくれる。そしてその証拠がいっぱい現れる」
ヒロくんは、昔そう言っていた。だから、頑張りすぎないでいいんだよ、と私に言ってくれていた。
ねえ、私は今、間違ったことをしようとはしていないよね?
だから、たくさんの偶然が重なって、私に合図を送っているんだよね?
唇が、わなないた。
忘れようとして閉じこめておいたことを、私は、思い出そうとしている。
それは、ものすごく愛していたはずの人のこと。そしてもう二度と私の前に現れてはくれない、去っていった人のこと。
ヒロくん。ヒロくんの言った通りになってきているよ。
私は、あなたを思い出そうとしている。
そのことを、どうして、あなたはわかっていたの?
「君はいつか、僕のことを、書く」
ヒロくんは私にそう予言していた。
私がヒロくんを愛した日々。けれどヒロくんは、私を愛してなどいなかった日々……。
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